2014年12月28日
柔道整復師の大変な道のり
明治維新以後、時の政府は漢方医学を廃止して、西洋医学を中心とした医療制度を打ち立てました。西洋医学は外傷の治療や感染症の対応に秀でた点があり、富国強兵を図る政府の意図にも合致していたのです。
外傷に対しての技術は日本にも存在していました。杉田玄白の解剖学の研究や、華岡青洲の麻酔を用いた手術もありましたが、外科学として確立された程のものではありませんでした。医師は漢方医という事でした。
元々、外傷の治療は戦闘に伴って進歩発展しました。武術の中には殺法と活法があり、活法は負傷者の治療法です。これは、骨折・脱臼・捻挫・打撲などの外傷を治す技術です。こうした技術は時を経るに従い、武術の各流派に蓄積伝承されていきました。幾つかの柔術の流派ではそうした活法を秘伝として伝えていきました。
そして、江戸から明治に時代が変わる頃、各流派の柔術の師範は武術では生活が出来なくなり、外傷治療で生計を立てていました。しかし、明治18年に「入歯歯抜口中治療接骨営業取締方」が公布されました。これによって、医学校を出て試験に合格した者:医師以外は接骨ができなくなりました。それまで接骨をしていた者には幾つかの救済措置もとられましたが、国の方針は武術家の接骨術を衰退させていきました。
その後、接骨術の法的身分確立の為に多くの人が運動を続けました。そして、大正9年、「接骨」の文字を使わない事を条件に、「柔道整復術」という名称で公認され、同年第1回の資格試験が行なわれました。
接骨術は柔術各流派に伝わっていたものです。本来的には柔術整復術ということです。当時台頭してきた近代的な「柔道」の名を冠する事で、命脈が絶たれなかったのですが、実際の古来の接骨術は表舞台から消えました。ちなみに、柔道整復師の学校で習う脱臼整復の技法は「コッヘル法」「ヒポクラテス法」等の外来の技術・名称のものばかりです。
「正骨範」という江戸時代の文献の復刻版が出ていたりはしますが、幾つもの精妙な技法が消えて行ったであろう事を思うと残念な事です。
今でも、時々、古流の治療技術を伝承するという方がいるようですが、柔道整復師の養成機関ではそういった事とは無縁の授業がなされているのが現状です。
それにしても、「柔道整復師」の名称が出来た過程は興味深いものがあったと思うのですが、なかなか分かりません。柔道の創始者であった嘉納治五郎先生の政府高官との人脈があった事は想像に難くないのですが、柔術諸流派の方たちの思いはどんなことだったでしょう。柔道の母体である、起倒流や天神真楊流派には医療的技術があったでしょうが、嘉納先生が追及していたのは柔術の近代化と発展なので、講道館で医療的技術の精妙な技が蓄積されたとは考えにくいものです。現在まで続く柔道整復師の名称に関わる秘話をお知りの方がいたら、是非教えて頂きたいものです。
外傷に対しての技術は日本にも存在していました。杉田玄白の解剖学の研究や、華岡青洲の麻酔を用いた手術もありましたが、外科学として確立された程のものではありませんでした。医師は漢方医という事でした。
元々、外傷の治療は戦闘に伴って進歩発展しました。武術の中には殺法と活法があり、活法は負傷者の治療法です。これは、骨折・脱臼・捻挫・打撲などの外傷を治す技術です。こうした技術は時を経るに従い、武術の各流派に蓄積伝承されていきました。幾つかの柔術の流派ではそうした活法を秘伝として伝えていきました。
そして、江戸から明治に時代が変わる頃、各流派の柔術の師範は武術では生活が出来なくなり、外傷治療で生計を立てていました。しかし、明治18年に「入歯歯抜口中治療接骨営業取締方」が公布されました。これによって、医学校を出て試験に合格した者:医師以外は接骨ができなくなりました。それまで接骨をしていた者には幾つかの救済措置もとられましたが、国の方針は武術家の接骨術を衰退させていきました。
その後、接骨術の法的身分確立の為に多くの人が運動を続けました。そして、大正9年、「接骨」の文字を使わない事を条件に、「柔道整復術」という名称で公認され、同年第1回の資格試験が行なわれました。
接骨術は柔術各流派に伝わっていたものです。本来的には柔術整復術ということです。当時台頭してきた近代的な「柔道」の名を冠する事で、命脈が絶たれなかったのですが、実際の古来の接骨術は表舞台から消えました。ちなみに、柔道整復師の学校で習う脱臼整復の技法は「コッヘル法」「ヒポクラテス法」等の外来の技術・名称のものばかりです。
「正骨範」という江戸時代の文献の復刻版が出ていたりはしますが、幾つもの精妙な技法が消えて行ったであろう事を思うと残念な事です。
今でも、時々、古流の治療技術を伝承するという方がいるようですが、柔道整復師の養成機関ではそういった事とは無縁の授業がなされているのが現状です。
それにしても、「柔道整復師」の名称が出来た過程は興味深いものがあったと思うのですが、なかなか分かりません。柔道の創始者であった嘉納治五郎先生の政府高官との人脈があった事は想像に難くないのですが、柔術諸流派の方たちの思いはどんなことだったでしょう。柔道の母体である、起倒流や天神真楊流派には医療的技術があったでしょうが、嘉納先生が追及していたのは柔術の近代化と発展なので、講道館で医療的技術の精妙な技が蓄積されたとは考えにくいものです。現在まで続く柔道整復師の名称に関わる秘話をお知りの方がいたら、是非教えて頂きたいものです。
Posted by 渡辺克敬(わたなべ かつゆき) at
00:16
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